IT系の専門用語もたくさんありますし、
同じ技術の仕事でも言葉では言い表しにくい違いがあったりするので
CAにIT知識がないと希望を伝えるだけでも難しかったりするんですよね。
その点、レバテックキャリアのCAは、クライアント企業の人事担当者だけじゃなくて、
現場のプロジェクトマネージャやエンジニアと
毎日のようにミーティングをしているからIT知識が豊富です。
だから転職先の希望の細かいところまで拾ってくれるから安心です!
しかも現場の要望もよく理解しているから、
クライアント企業と転職希望者のマッチングもかなり期待できます。
もしアンマッチだとまた転職する羽目になるかもしれないので、
マッチング能力の高いCAがいるレバテックキャリアは
IT・Webエンジニアとって強い味方になると思います!
おすすめランク | 公開求人数 | 非公開求人数 | 対応地域 | 年収UP率 | ||
約1200件 | 約4,800件 | 東京、神奈川、千葉、埼玉、大阪 | 非公開 | |||
雇用形態 | 得意職種 | 社員数 | 設立年月日 | 資本金 | 拠点数 | |
正社員 | IT系 | 非公開 | 2005年4月6日 | 6,000万 | 11 |
社会のことを1から教えてくれたこの会社をこんな形でやめるのは、
非常に辛かったですが、最後はブラック企業のような会社に成り下がり・・・
早く辞めたいという気持ちでいっぱいでした。
これも後で聞いた話ですが、
社長は首をつって死んでいたそうです。
その第一発見者が、副社長でした。
O社長らに命令されて、
様子を見に行ったというような物騒なうわさもありました。
社長は、追いつめられるところまで追い込まれ、
死を選択したのだと思います。
その後、Oは社長の生命保険を充てに、
社長の御両親とごたごたがあったと聞きました。
ドラマのような展開ですが、これは事実です。
最後は、かなりヘビーな内容となりましたが、
仕事面では、充実はしていました。
ブラック企業でも、営業力はもちろん、
忍耐力と対人力には強くなったと思います。
なにより度胸はついたと思います(笑)
入社当時は本当に何も知らない自分でしたが、
今では上場企業に転職ができています。
これはなにより、
このブラック企業での5年間の濃い経験の賜物だと思います。
ただ面接ではやはり、
芸人を目指していたこともアピールしましたけど(笑)
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
引き継ぎ業務も膨大だったのです。
会社はこのような状態でも、
仕事はまだたくさん残っていました。
状況をわかっていないメンバーも大多数で、
このまま管理者だけが退職するというのは・・・無謀でした。
そのような中で、すでに1週間遅配していた給与については、、
振り込みではなく、
【現物支給】
という形をとるということなりました。
とにかく給与が支給されることで安堵するメンバーも多かったですが、
自分はこのようなことで、やめるという決断が揺らぐはずもありませんでした。
自分は信頼できる営業メンバー数名を集め、
あったことを全て話ました。
無責任だと思いましたが、
自分もやめることを決意したということをその場でメンバーに伝え、
やめるのであれば、一緒に辞めようと呼びかけました。
そんな中、案の定、翌月も給与遅配が発生しました。
このことで対外的にも辞める理由は明白なものとなりました。
さらに、追いうちをかけるように、
O社長の会社がうちの会社を受け入れることになったというのです。
表向きは、コンサルティングの会社ということでしたが、
何をやっているのかわからない、ヤクザ者の会社には1日もいたくないと思いました。
社長が亡くなってから、すでに2ヶ月は経過していました。
営業の管理者もすでに2名退職願いをだしていた中で、
自分も退職願いをだしました。
すると、すぐに営業メンバーの管理者が全員、
副社長に呼び出されました。
何を言われても、辞める!という決意でしたが、
会議室に通されるとそこにいたのは、、、
O社長でした。
副社長は中に入らず、そのまま退室し、
残ったメンバーとO社長だけとなりました。
・・・息がつまりそうでした。
O社長から鍵を閉められた後、
開口一番、
「おまえら、辞めるいうてるみたいやな!
これから会社を立ち直していかなあかん言う時に営業が抜けていいわけないやろ!
おまえらには責任感のかけらもない!」
など、
説得ということではなく、すごまれ続けました。
それは辞めないというまで、
帰さないという脅迫のようでした。
なかなか首を縦にふらない僕らに対してOは、
衝撃の一言を放ちました。
「お前ら、●●(社長の名前)がどんな思いで死んでいったと思うねん!
●●は自分で死んでいったんやぞ!」
社長の死因は自殺でした。
もしかしたらと思ってはいましたが、
その衝撃はなかなかのものでした。
きっと上場できなかった後、
債権の回収がひどく、かなり精神的においつめられたんだろう、
と激やせした社長を思い出しました。
一旦、O社長がたばこを吸いにいった間に、
僕らは、自席に戻り、別の管理者に状況を伝え、
このまま戻れない場合は、警察を呼んでくれと依頼をしておきました。
それほど、ひっ迫した空気でした。
かなりの圧迫感と恐怖でしたが、
それでも続けるという選択肢はありませんでした。
結局、3時間以上つめられましたが、
僕らは一切、首を縦に振りませんでした。
ようやく解放された翌日、
このことで管理者の1人は会社を飛び、連絡がつかなくなりました。
このあとも、同じようなことが何度かありましたが、
自分はこの日から2週間後、有給は消化せず、
ようやく退職することができました。
社長が亡くなってから3ヶ月後のことでした。
その後、会社は社名を2度ほど変え、
徐々に社員も辞めていったと聞いています。
最後はどうなったのか、、明確なことはわかりません。
]]>そしてその判断が間違いではありませんでした。
]]>ひとつは、クライアントから入金される会社の指定口座を、
別の指定口座に振り込ませること。
もうひとつは、
東京で行われる通夜と葬式に参列することを言い渡されました。
翌日、通夜と葬式に参列するため、
営業の管理者4名と、創業時からいる古株のS部長と東京へ向いました。
通夜の会場に到着すると、
現場は異様な空気に包まれていました。
明らかにその筋の人たちが大挙していたのです。
その中には、副社長の隣にいたあのO社長もいました。
そしてどうもこのO社長が親族ともめたらしく、
社長の実の姉夫婦が参列をしないということになったようでした。
後でわかったことですが、社長がそういった筋とも関係があって、
多額の借金をしており、その者たちが債権を取り戻そうとしていたようでした。
通夜が終わり、S部長だけが親族に用があるといって、
その場に残り、残りのメンバーでホテルに戻った僕らは、
S部長と同部屋だった者の部屋に集まり、
など、S部長を待ちつつ、
アルコールを飲みながら話していました。
そうこうしているうちに、明け方の4時になり、
S部長が戻ってきました。
ようやく戻ってきたS部長に、
「S部長、お疲れさまです。」
となげかけた瞬間・・・
S部長の姿を見て愕然としました、、
礼服やカッターシャツは、びりびりにやぶかれ、顔は腫れており、
首や手にも傷ができていて、明らかに暴行されたような様子でした。
話を聞くと、O社長やその連中に捕まり、
飯を食べにいったときに、言い合いになったらしく、
暴行を受けたようでした、、
「S部長、ほんまにお疲れさまですね!」
などと、言う者もいましたが、
誰ひとり、笑っていませんでした。
翌日、葬儀があり、予定どおり出席しましたが、
火葬場にはいかず、S部長だけがバスに乗り込みました。
僕らは、S部長にも手を合わせてバスを見送り、
大阪へすぐに戻りました。
新幹線で大阪へ戻っている途中、
すでに自分の中で、
【会社辞める】
という決断をしていました。
一度にたくさんのことが起きすぎて、
思考停止状態になりそうになっていた僕ですが、
社長の葬儀に参列することに。
そこで更なる事件が起きることなんて・・・
想像もできませんでした、、
商談が終わり、気が付くと・・・
部下から尋常じゃない着信履歴が入っていました。
折り返すと、
「次郎三郎さん、やばいっす。。
午前中、緊急の全体の朝礼があって社長が亡くなったみたいです。
しかも今月分の給料もでないみたいっす。。」
一体、何をいっているかすぐに理解はできませんでした。
社長が死んで、給料が出ない!?
とにかく、はやく帰ってこい、と●●さん(上司)から伝言とのこと。
「わかった。」
戻ったとたん、
管理職全員が副社長に呼び出されました。
これもまた、随分とやつれた副社長とその横には、
【見覚えのない男性】がいました。
一目見て、体から放っているオーラが・・・
こっちの世界の人ではないというほど強烈なインパクト。
目を合わせてはいけない、そんな気がしました。
「こちらは、社長の知り合いのO社長です。
生前、社長が大変お世話になっていた人です。」
「??」
その時は、なぜこんな大事な時に、
【部外者がいるのか?】理解ができませんでした
この異様な雰囲気の中で、
まず社長が昨夜、亡くなったことが知らされました。
急なことで、周りはかなり動揺していました。
自分も、もちろん動揺していましたが、
3日前のことを思いだし別人のようになった社長を見て、
急死したことも、、なんとなく理解することができたような気がしていました。
給与遅配については、社長が亡くなったことで、
会社名義の口座はすぐに凍結されたためとのことでした。
ただ単純に死亡したからという理由だけでなく、
銀行側が会社に貸し付けている金の回収の見込みが薄くなる、
という判断を下したとの噂もありました。
副社長からは、一時的に給与遅配が起こるが、
もちろん、ちゃんと給与は支払うという説明でしたが、
いつ振り込まれるのかという質問には、明確な回答もありませんでした。
それから、いろいろな疑問が副社長に投げかけられました。
事業はもちろん継続するという説明はあるものの
副社長からの説明はそれ以上、何もありませんでした。
・・・というよりも、横にいる「O社長」という男を気にかけながら話しており、
言葉を慎重に選びながら、話しているという印象でした。
そのO社長も何か言うでもなく、
終始ひと言も言葉を発することもない。
その佇まいは、副社長が余計なことを言わないように、
監視でもしているかのような感じでした。
そこに座っているだけで、かなりの圧迫感でした。。
会議は重苦しい雰囲気の中、
昨日まで働いていた会社とは思えないような、
究極に陰鬱とした感じとなって・・・
ついには管理職の中に急に泣き出す者も出現、
事態はより深刻になっていく様相を呈していました。
恥ずかしながら、このような深刻な事態になってから、
初めて会社が傾いていることを認識し、大きな危機感を抱きました。
振り返ると、次々と役員が辞めていったことも・・・
こうなることがわかっていたのでしょう。
会社は、多方面から相当な額を借り入れしており、
それを上場して、返済もしくはさらなる融資をと計画していたのでしょう。
上場ができなかったことで、それも泡と消え、
利益を享受しようと考えていた債権者達は、たちまち手のひらを返すように
冷酷な態度をとりはじめていたのだと思います。
会社は本当に窮地に追い込まれていたのです。
]]>そこから何か、、歯車が狂い始めました・・・
「おい、仕事がんばってるか!」
全く見覚えのない男でしたが、
よく見ると、すぐにだれかわかりました。
それは社長でした。
なぜわからなかったのか?
前述でも説明したように社長は、
巨漢でお相撲さんのような体格なのですが、、
目の前にいたのは、以前の体格が嘘かのような
かなり激やせした姿だったからです。
よく、うさんくさいダイエット商品で、
「うそやろ!?」というような、ビフォーアフターの対比画像がありますが、
社長の激やせぶりは、まさにそれ以上のインパクトでした。
次郎三郎⇒「社長、どうしたんですか!?」
社長⇒「ダイエットに成功したんや。」
かなりやつれた印象で華奢な体。
それは目を疑うような・・・変化でした。
東京本社になってから会う機会は激減していましたが、
久しぶりに見た社長は、本当に別人でした。
その時、社長はペットであろう、
チワワを会社に5、6匹連れてきていました。
激やせした社長の姿を見ながら、場違いな犬が吠えまくる、、
なんだかフロアが異様な空気だったこと覚えています。
そして、その3日後でした。
社長が急死したのは。。
理由としては、
ヘラクレスの売買システムのトラブルにより、
新規申請銘柄については、一旦、凍結する。
というものでした。
それだけが理由だったのか、定かではありませんが、
その後、セントレックスへ上場するという話もあがったものの、
結局・・・上場するということはありませんでした。
そこから会社に少しずつ変化が訪れました。
役員が一人やめ、二人やめ・・・そして、
体育会系であった上司ですらこの会社を去っていきました。
しかし自分には「やめる」という選択肢はありませんでした。
ここまで育ててくれたのは、この会社のおかげだと思っていましたし、
お客様からも信頼してもらっていたことが非常に大きかったのです。
そう信じて疑いませんでした。
しかし、、、
]]>新たなサービスの販売を開始する目途がついていたのです。
それは上司が、読んでいたある1冊の本が鍵になっていました。
その本は日本で初めて、
SEO(検索エンジン最適化)に関する書籍でした。
今さらSEOを説明する必要もないと思いますが、当時、
検索エンジンの上位表示サービスは市場にまったく浸透していなかったのです。
特に関西では、まだまだでした。
ここに目をつけた会社は、
その書籍の筆者にコンタクトをとり、すぐに役員に据え、
SEOを反映させたWebサイトの販売に切り替えました。
この戦略が大当たりし、実績を積み上げることができた会社は、
一気に規模が拡大しました。
そこから約2年足らずで、大阪だけでなく東京にも進出。
社員数はリストラ後の20名から気がつけば200名にまで増え、
大阪のオフィスも雑居ビルから堂島の高層ビルのほぼ最上階の全フロアを利用、
また某大銀行から無担保で数億の借入ができるほど、
会社の信頼度も増していました。
優秀な人材も入ってくる中、体育会系の上司は統括の本部長に、
そして自分も営業10数名とアポインター10名の部下を束ねる、
1営業チームの管理職となっていたのです。
忘年会は2年連続で大阪の某高級クラブ。
東京のメンバーも全員大阪に呼び寄せ、
かなり豪勢な忘年会が開催されました。
社員のモチベーションも高く、
この頃は非常に勢いがありました。
この時、社長はまだ30代前半。
もともと巨漢だった体格はさらに大きくなり、
お相撲さんのような体つきになっていました(笑)
それでも綺麗な奥さんをもらい、仕事もプライベートも、
勝ち組のオーラがびんびんに出ていたことを覚えています。
年が明けても、会社の勢いは止まりませんでした。
当時、存在していたヘラクレスという株式市場への上場を目論んでおり、
上場準備の真っ最中。
管理職の自分にも株の割り当てがあり、
会社の勢いを肌で感じながら、出世&給料も上がり、
入社時の時のような、自信のない自分はもういませんでした。
そして会社はその年に、予定通り上場する!
はずでした。。。
]]>自分も毎月2、3本程度、一生懸命成約をとっていたのですが、
販売した先からは納品後、ほぼ100%の確率でクレームが発生しました。
できるとかかれていることが、
そのソフトでは実現できなかったからです。
開発部門がもう無いため、システムの改修すらできず、
会社も外部に委託せず、放置。
さらに当時は顧客をフォローする部署もなかったため、
クレームは営業が対応するしかない状態でした。
当時のお客さんは、個人事業主や零細企業のみだったため、
たとえ、数十万でも大きな投資だったのでしょう。
クレーム対応で謝罪にいった先々で、
「どうしてくれるんだ!騙された!詐欺のようなもの!」
「金返せ!土下座しろ!」
などと、言われ、
まだ入社間もない僕には大変辛いものでした。
すでにこのころは目を覚まし、
自社商品の信者ではなくなっていました。
「こんな喜ばれない商品売れるわけがない。。」
むしろ、もう売りたくない。。
というマイナススパイラルに陥っていました。
現場で不満は噴出しましたが、
上司は一貫して、
「誰もが売れるような商品を売るんだったら営業はいらない。
売れないものを売るのが営業。それが営業マンの価値だ!」
と営業会社ばりばりの理論で、
「がつがつ売りをかけていくぞ!」という強気の姿勢を崩しませんでした。
ただそんな中でもクレーム処理で上司にも対応を依頼することも増加し、
一緒にお客さんから、罵声にも似た言葉を浴びせられることが多くなると・・・
徐々に強気のマネジメントもなりをひそめ、
現場の声に耳を傾けることが多くなってきました。
結果的に、数字も大きく積み上げることができないことはもちろん、
販売しても営業効率を悪化させる、このとんでもなく生産性の低いこのソフトの、
販売を撤退するという判断をようやく会社は判断することになります。
開発期間 | 2年 |
投資額 | 数億円 |
販売本数 | 22本 |
・・・という、利益はもちろん、
市場に全く出回らないまま、幕を閉じました、、
恐怖心からアポを必至でとろうとするテレアポの毎日・・・
そしてついに恐れていたことが起こってしまいました、、